跳梁の一頁目


 自宅の裏山へ茸狩りをしに分け入って行くと急な斜面の草陰で大きな物音がした。動きを止めてじっと窺っていると暫くして少年の屈んでいる姿が見えた。かつて知らない風体だった。
「どうしたんだ?」
 熊は出ないものの猪は出会すと心配になり、泰造は声を掛けてみた。返事はない。
「聞こえないのか?」
 少年は場を離れようとしていた。足音を立てないように少しずつ深い枝葉の中へ身を移している。消えかけそうだ。泰造は登って来た獣道を脇へ逸れると顔に険しい表情を浮かべて歩き出した。
 何十年も手入れが施されていず、木々は猛烈に生い茂りながら行き先を阻んだ。鋭く覆い被さってしまう枝葉を打ち払って進む。堆積した腐葉土に軟らかく埋もれる足取りで、遅々と追えない。
 上空に鳥が飛んでいた。晴れ渡る空を背にした逆光に黒ずんだ羽ばたきを見上げては羨ましくも思える。啄木鳥か。長い嘴だった。高い樹木の梢へ回り込んだ。
 改めて歩き出すや驚いた。
「うわっ!」
 蜘蛛の巣に引っ掛かって立ち止まりながら顔を拭う泰造、遠目で少年は見ていた。

 数分の後、張り出した木の根に躓いた少年が動けなくなり、泰造に助けられた。帰るように諭した。危険だと。少年は黙って頷き、荷物を取りに行くと洞穴へ戻った。泰造も付いて行った。

 洞穴には旅行鞄が置かれている。
「家出か?」
 泰造は死を予感した。山奥で自殺する人は少なくない。十八歳と告げられたが、もしや悩みでもあって遁れて来たのならば可哀相だ。さっき歩きながら目的を尋ねては探検と笑っていた少年が俄かに疑わしかった。宝探しではない。
 問いかけは当たった。
「気が滅入る所が好きなんだな。暗くて生きる希望も湧くまい。俺ならば海でも眺めて考えるよ」
 少年は頷きながらゴミが入った袋を旅行鞄へ詰めた。辺りを見回すと綺麗なものだ。変哲もない地面へ背筋を伸ばして泰造は言った。
「なんで家出なんかする」
「ゲームに飽きて」
 少年は肩越しに言った。難しい顔で立ったまま、泰造は軽く叫んだ。
「ゲーム!?」
「何もしたくなくなったから外へ出向いてみたら何かある」
 泰造は肩の力が抜けた。呆れて溜め息を吐いた。言う。
「連絡しろ、家族に。いなくなって困ってると思うぞ」
「三日くらい」
 同年の孫を思い起こした。自分に置き換えると憤りすらも否めない。
「ケイタイがなければ貸そう」
 泰造は言うとズボンのポケットの中身を取り出した。大振りで、操作も簡易的なタイプの機種だ。シャンパン・ゴールドの輝きに目を瞠って少年は言った。
「初めて見た。老人用のケイタイ。実物は案外と素っ気ない」
「七十歳の誕生日に息子夫婦に贈られたんだ。使い慣れたケイタイが良かったんだが、新しいのはDPSが付いてるらしく行方不明になっても発見できると説き伏せられた。別に昔と変わってやしない。しかし親孝行と感じればこそ突き返すのも不味かろう」
 少年は弄んでいたケイタイのメロンのストラップを訊いた。
「嫁」
 照れ隠しで唇を薄く噛んだ泰造は話題を移したくなった。
「電話すると良い」
「しない」
 洞窟に静寂が走った。
「良いけど、しなくても」
 泰造は苦い気がした。差し支える身の上ならば少年と諮らずも別れてしまうには忍びなかった。そして言い続ける。
「うちへ寄って行け」
「帰っても同じなので、一人にして欲しい」
「どんな事情にせよ」
 少年はナイフで太腿を切り裂いた。鮮血が溢れる。岩壁に崩れ落ちた。
「おい」
 手を差し伸べた泰造はおろおろしていたもののタオルで応急処置を行うと少年を担ぎ出そうとした。傷は深くない。浅いほどでもないにせよ、入院、または看病を免れないと感じた。だが、断られる。少年は物悲しい声を出した。
「止めてくれ。さもないと死ぬ。生きられないんだ。絶対に死んでやる」
 言葉を呑んで、泰造は聞き入っていた。充血した瞳を涙で潤ませながら開いていた口を閉じる。淀んだ空気が流れるともなく、粛々と広がるのだった。
 少年は横たわったまま、やはり黙っている。
 予想もしない束の間の惨劇と連鎖した物騒な申し出に動乱した泰造が我へ返って表したくなった言葉には優しさが滲んでいた。憤懣し得ない心根にも似た感覚で、放っておくよりも仕方がない、強いてまで気の毒と受け取るべき怪我ではないのだから、自分で自分が可笑しくなくもなかった。
「一人にするさ」
「あなたのせいで、やったんじゃない」
 顔を覗き込まれた少年は太々しく言った。泰造は幾らか瞬きをすると言う。
「癇癪を起こした」
「知りたくもない」
「俺は嫌いな全てを転倒させて生き延びた。否定すれば頭がカラッポになるだろう。悲しんでいても始まらない。きっと終わらないために死ねないんだ。世の中が納得できなくても少しずつ力が漲って来るのは嬉しい事実だし、現在の生きた証とすれば気持ちを入れ替えてスタートできる」
 寝そべりながら頬杖を付いた少年の後ろ側で、泰造は言い止めなかった。
「具に観察しなくては看過されてしまう事柄もあって即断するには及ばない。早まって悔いを残したくないかぎり、一遍は疑うべきだ、たとえ虚しい人生でも。寿命の近い俺みたな奴が判った口を叩くよりも若者こそ相応しい見解ではないのかしら。死んだら終わりだ。リセットしても始まらない」
 泰造は躍起になった。ある謎が腑に落ちて声を荒げた。
「人生はゲームではない」
 さらに言う、少年に同意する様子は微塵もないが。
「スイッチが利かない。聞くだけでも構わないけれども早まって貰いたくないんだ。命を粗末にするなよな」
「耳は貸してる」
 少年が半ば仰向けになった。もはや指先で砂粒を甚振ってはいなかった。次いで旅行鞄を枕にして微睡むような表情を見せる。胸元へ置いた左右の手を組んで、じっとしていた。
 頑として変わらない気らしい。泰造が言う。
「痛みがないとも考えられない」
 少年は横目を向けた。負傷した太腿を緩く撫でながら穏やかに言う。
「ありがとう。幾分か収まった。タオルを返さなくてはならない」
「取っておけ。やるよ」
 言いながら泰造は眉間に皺を寄せた。