跳梁の二頁目


「しても真っ赤で見るに見兼ねる。痛ましい。いるつもりか、夜中にバケモノが出ても?」
「もちろん」
「毒蛇だって棲息してる!」
「仕切りを作ってある。木の枝を絡み合わせて。閉ざせば大抵は入れないはず」
「そうか」
 腰を上げて立ち去ろうとする泰造だった。無碍に引っ張って行きたくても殺してしまう恐怖感が強くて諦めざるを得ない。残される少年が実に不憫だった。
「うちは山裾で農家を営んでいる。一軒家だ。ともかく気が向いたら寄ってくれ」
 泰造に言われて少年は頷いた。再び左右の手を組み合わせた胸元が微かな息遣いで揺れている。まるで祈りとも感じさせられる。少年は顔を背けた。
「神様が護って下さる」
 考えてもみなかった言葉を吐き出して泰造はステッキを付いた。洞穴の外の光へ笑みを転がしたまま、一瞥するや少年に言われた。
「飽きるのにも飽きて」
 泰造は当惑した。そして自身と照らし合わせた想いを口にした。
「呑気な奴だ」
「葉っぱを被ってぐっすり眠るには煩くもなくて悪くない」
「煩いのは嫌いか!?」
「まあね」
 少年との遣り取りそのものが辛くなり、怯んだが、泰造は面目を保ちたかった。企てを得ていた。
「確かに人気もない森だろう」
 行うに骨が折れる。枯れた落ち葉を摘み上げるにも容易くはない。地面へ腰を曲げては節々が軋むのだった。漸く落ち葉を持つと少年の方へ放った。
「掛けてあげる、蒲団を」
 外に歩き出した泰造とは反対で、少年は目を瞑りながら喜びを堪えるように肩を震わせずにいなかった。

 中途だった茸狩りを再開する気にもなれず、獣道をとぼとぼ下りて行く。
 様々な想いが過っては失われた。
 そのうち孤独も耐え難くなって洞穴を抜け出すのだろう。サバイバルを一人で面白がっている。
 若い時分、俺だって農園の跡継ぎになるのを拒んで、街中を彷徨っていたものだ。まるで浮浪者みたいだった。飲酒に溺れて喧嘩三昧で、警察に補導されて家に突き返された回数などは覚えてやしない。しょっちゅう。母には泣かれ、父へも愛想を尽かされ、いっそ消え果ててしまいたかったのか。自分でも判然としない。ただ脱落するように決まり切った在り方を避け続けていた。
 あいつは食べ物があるのか。腹を空かせてないと良いが、まさかミイラになりたいわけではあるまい。なられても悲しい。アンパンでも携えていれば置いて来たかった。生憎、籠には山菜も拾わないでいた。
 泰造は煙草を吹かし、自宅付近で休憩した。

 二階の部屋で、昼夜、孫が勉学に勤しんでいる。大学受験を控えた高校三年生だ。追い込みに拍車を駆けて近頃はめっきり姿も現さなくなった。医学部へ進学する。小児科を志したのは身内の不幸だった。双子の従兄妹が産まれたのだが、間もなく妹は亡くなってしまった。先天性の病で、脳に障害を患っていた。余命を数か月と宣告されて世の中を去った。当時、幼少だった孫は小さな遺体を目の当たりにして泣いたのだった。
 仏壇へ拝む。
 泰造には日課となっていた。とりわけ就寝前が厳しい。会社員の息子たちと居間での一家団欒を済ませたりしては早々に晩飯を切り上げつつ自室で想いを馳せるのだ。
 今夜も変わらない。ただし違いがあるとすれば先刻の出来事だった。
 誰かに話しても厄介だとしか案じられない。捜索されているのではないかと考えるほどに心苦しかった。連れて行きたくても逃げ出されて事態を悪化させないともかぎらない。説得できず、歯痒い自分に憤りすらも感じる。無力だった。
 畳へ仰向けになり、生存を願うばかりだ。凡そ行き場もないまま、好き好んで貫徹している方向性を捻じ曲げる相談など俺は受けなかった。俺が受けたのは放任されたい気持ちなんだ。しかも絶命するらしい要件を渡された。相談ならば取り合えまい。
 俺には不可能だ。起き上がり、泰造は悟った。むしろ危機が過ぎ去るのを望みたい。

 寝室の襖を隔てて呼ぶ声がする。下の孫だ。娘に連れられて訪ねて来たのだろう。襖を開けると小皿に三色の団子を持って立っていた。差し入れだった。泰造は招き寄せ、孫と共に団子を頬張った。桃色と白と薄緑、どれも美味しい。訊かれるともないまま、泰造は孫へ話すのだった。串の先の桃色は夢が詰まった思い出で、真ん中の白は思い出に包まれた混じり気のなさで、そして串の奥の薄緑は混じり気のない喜びの儚さだ。食べてみて感じた事柄なのだが、泰造は自己流の表現に満悦して頷きながら笑った。一生懸命に団子をもぐもぐ噛んでいる孫は呑み込むと応じようとはせず、しかしながら別に話し出している。可愛かった。幼稚園で目高を飼育するとか。

 翌朝は雨降りだった。ビニール・ハウスで、苺の世話を行うのが仕事だ。慣れてはいるものの流石に湿気は堪える。疲れが早くて昔よりも老いたと痛感せざるを得ない。息子の嫁が手伝うようになって以来、作業は随分と減ったと考えれば幸いだが、苺が好きな嫁を貰った息子にも家業へ加わって欲しいとは贅沢だろうか。何れにしても性に合わないと断られてしまう。よもや内心の侘しさが滅却させられる月日こそ長かった。
 泰造の嫁は出て来ず、家で寛いでいる。畑への段差を踏み外して左足を捻挫した。大事には至らなかったにせよ、暫くの間、静養が必要とされた。ギプスを充ててある。まるで重症みたいだと泰造は茶化した。今日、数十日振りに取り除かれる。

 降り止まない雨の中を車で病院へと向かう。正午前の市街は人通りも疎らで、道路も空いていた。泰造が運転する車の助手席で、妻は言った。
「牛乳屋の息子が入学試験に合格しなかった」
 信号が赤になり、交差点で車を停める。
「どうしても大学生になりたいわけではない」
 妻が言う。青になった信号で、車を発進させると泰造は言う。
「写真を学ぶと聞いていたが」
 T字路を左折した。
「お母さんは進学を勧めた。好きにさせるけれども写真で稼げるかどうかは難しいから幅広く考えるためにもと。浪人するらしい。就職しながら夢を追うよりは学ばなくては気に入った写真が撮れないんだって」
 フロント・ガラスの水滴をワイパーが消しても消しても雨粒はひっきりなしに飛んで来る。
「どっちでも同じじゃないか!?」
 激しい水飛沫を上げながら右曲りの路面を走行していた。
「同じじゃない」
タイヤが僅かにスリップしたが、ハンドルを切り返してバランスを取り戻す。
「来年の合格を目指し、早速、予備校へ通い出した」
 妻は言って顔を綻ばせる。泰造は一時停止の標識でブレーキを踏み付けると車を徐行させた。交通を確認して左折して行く。アクセルを強めに踏んで言う。


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