跳梁の三頁目


「働きながら学べば稼ぎにもなって良かろうに」
 真っ直ぐの路上だった。
「大変よ」
 脇道で飛び出しそうな郵便配達のバイクが急停止した。
「勉強するには合格した方が益しだわ」
 接骨院の看板が雨に濡れて立っている。二人が乗ったフォードは駐車場へ入って行った。

 泰造は眩暈を訴え、診察中の妻とは掛け離れたロビーで休憩している。
 パックの冷たいコーヒーをちびちび飲んだ。冴えない頭が少しは紛れる。曇天のように重たい気分がした。
 頭を振ったり、深く呼吸を繰り返したり、すると段々と気分は晴れて来るのだった。寝不足かしら。泰造は思い、さらに呟いた。昨夜は普段よりも短かった。ストローでコーヒーを吸いがてら院内を見回す。備え付けのテレビではUFOの特番が放映されていたにせよ、取り立てず、さても窺わなかった。コーヒーがなくなり、萎んだパックを廃棄すると泰造は腕を組んで、ソファに身を沈めたまま、時間を潰した。

 診察室を出で、医師へ一礼すると妻は元通りの足で、廊下の角を歩いて来る。

 二人は昼食を兼ねて蕎麦屋へ赴いた。泰造は言う。
「そのうち旅行でもしよう」
「気に入った場所があるの?」
「ない。ただ疲れた気がする。日常を脱却したい」
「藤の花が見頃の時節、もう五月になる」
「早いな。来年の春の結婚記念日を考えていた」
「私だって旅行したいわよ」
「今時分は仕事が立て込んでいて易々とも遠出できなかった」
「しようとしてない」
「できればしてみたい」
「紫の綺麗な花が咲いて香も素敵に広がっている!」
「ポチに苺は栽培できない」
「賢い子犬ね」
「まさか担い手ではない、家業の」
「ペットだ」
「どうして会社員になったかを解せない」
「力試し」
「ぐうの音も出ない。父親が先一昨日へ行かれてら」
「世話を焼かせたくなかった」
「ついつい熱が入ってしまう。仕事よりも甲斐性はない。息子には伝えたかった」
「働いてなくはない」
「作物の出荷と商社の事務は違う。全然、比べられない」
「子煩悩」
「手塩に掛けた生活の豊かさを是非とも受け取って欲しいけれどもな」
「美しい苺が食べさせられただけで存分でしょう!!」
「分かってる。ところで持って来てある」
「快気祝いかしら」
「ルビーの指輪」
「また倒れたくなる。倒れて格段の品々を頂くべきと思う」
「弱った」
「十二年前の誕生日はエメラルドの首飾りだった。久々の宝石。大事にしたい」
「助かるよ、健康なので」
「金庫へ仕舞っておく。どうせ着ける機会もない」
「畑で失くされても悲しい」
 妻が昼食の支払いを済ませるや車で家路に就いた二人だった。

 今夜も寝付きは優れない。忙しくて暇も作り出せず、気持ちとは裏腹に会わないでいる。布団に潜って泣きたかった。
 泰造は物語を想像した。事情を聞けなかったので、詮索するように種々と雑多な要因を導き出してみる。
 あいつは繊細な性質なんだ。常人とは思われないくらい神経が脆くて世の中にも汲々とせざるを得ない。極小の騒がしさを辟易していた。まるで発狂したに匹敵する。安寧が必要なんだ。
 余程、家柄の良さが仇になって両親へ噛み付きたい。かつて認められない光を宿した瞳だった。感動する、考え返すと。俺の気の迷いや惑わされた心も絡み付く意地だって撤廃され、燃える蝋燭と擬えられる有限な命の印象が明るくも震え続けるだけで、ある終わりを免れない戦慄こそ不覚に懐かしくならないではなかった。甚だ堪える。
 我欲に囚われた俺とは正反対の趣きだ。
どうか死ななでいろ。泰造は柄にもなく夜更かしをした。ついぞ行わなかった思い巡りに驚きながら胸の奥で念じた。どうか死なないでいろ。隣で熟睡する妻へは報じず、逆に寝返りを打った。
 前日は狼狽した自分自身を取り繋ぎ、あるいは穏便に収拾するべき状態で精一杯だったが、信頼する妻も完全に知り得ないでいさせたとすると物淋しさに襲われて須く言ってしまいたかった。しかしながら無理だと思う。実際に会っても会わなくても出来事が移っても移らなくても妻ではなく、泰造にとって最上だろう力添えが秘匿だったのだ。
 微笑む。むしろ涙は出て来なかった。皺だらけの顔を枕に横向きで預けたまま、言わないでいてさえも通じ合うに違いないと妻を察した。初めての経験だった。かの男の境遇を鑑みるほどに専ら夫婦間が裁断されたとしても親密の度合いは増すべく壊滅されなかったのだ。泰造は秘かな喜びを抱きながら因果な話だと嘆じた。一言も打ち明けたがらないにも拘わらず、愛される内実が隈なく生じ、ややも嫌ったりはしない妻を全身的に乞うのだった。
 可笑しい。
 切り替わった気持ちなのか、すると泰造は唐突に思い付いた。上の孫にブラウスを贈ろう。前立てにフリルが付いたブラウスが似合う。今年の十八歳の誕生日が楽しみだ。合格の前祝いにもなる。

 天気は快晴だった。大量の雨もからりと止んで、むしろ透き通った山里の景色が広がっている。
 泰造は仕事を早めに切り上げると洞窟へステッキを付いて行った。家族へはハイキングと嘯いて依然として落ちない日の中の獣道を登った。
 菓子でも与えたいと考えていたが、もしも少年がいるのならば腹の足しになるとチーズかまぼこも持参した。会って三日目だ。遠慮するにせよ、初日よりは貧しいと思う。まして食料が多そうでもなかった。
 洞穴へ差し掛かると言われた仕切りは見当たらず、ぽっかり開け放たれていた。
「おーい」
 泰造が呼んでも言葉は返って来ない。進入する。少年はいず、さらに旅行鞄もなかった。出て行ったのかと泰造は声を溢した。
 樹海に戻り、眺めてみる。足跡など知り得ない。奥地では自殺者が絶えないのだ。止めて欲しい。
 一昨日の木の根の付近では汚れたバケツに雨水が溜まっている。誰が使ったかも定かではなく、通りすがりの人が少なくないと憶測させられて辛かった。泰造は歩き寄り、そして雨水を覗き込んだ。自分の顔が写っているが、死んでしまう途上のかぎりは生きたがらなくなり得ると感じるのだった。人として異なりはしない。俺も共通なんだ。
 湿った土地に些か呻きながら獣道へ着くと声が聞こえた。


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