芸術的な陶酔の十頁目


僕と知人は道路傍の石段に座って休んでいた。絵の残骸がゴミ箱のそばに放置されたままだった。あんなことじゃあこれから先が心配だ、知人はゴミ箱の方を見ていい、あの程度のことじゃあ何にもならない、といった。僕は涙をシャツの袖で拭き取った。僕は笑った。心配無用だ、と僕はいい、却って楽しみだよ、といい、さらに笑った。知人は僕を見ていた。知人は立ち上がると絵の残骸を拾って来た。見ろよ、ゴミだらけになっちまった、と知人はいった。知人は指で埃や石粒を除けようとしたら怪我した。ガラスだ、と知人はいい、血の粒を僕に見せ、怪我した指を舐めた。知人は僕から顔を背け、唾液を吹き飛ばした。僕は背を丸めて海へ顔を向けていた。こんなとき、どうするべきだろう? と僕は呟いた。捨てるに捨てられないな、と知人はいい、相変わらず、止まらない血を舐めて唾液を垂らした。地面が薄赤い唾液に浸された。浜辺の端に林があり、それらの境界付近に流れ着いたゴミが溜まっていたことを僕は思い出した。しかしそんな場所に絵の残骸を捨てることを僕はできなかった。君なら適切な仕方を知っているんじゃないか? と知人はいい、暖色の絵を描くほどなんだから、といった。うーん、と僕は唸っていた。随分と長い時間が経過した。夕暮れが接近していた。適切な仕方が思い当たることはなく、僕は絵の残骸を持って知人と分かれ、ログハウスに帰った。

部屋に入ると僕はカーテンを引っ張った。カーテンは閉じた。僕は絵の残骸を床に放った。僕は部屋を出て友人と彼女と一緒にテーブルを囲んだ。三人は食事を行っていた。僕だけ料理が、一品、少なかった。彼女は僕がパン一個を持ち出したことを指摘し、そのパンの代わりに僕の料理を、一品、減らしたことを説明した。まあ、いいさと僕は思った。僕は満腹にならなかった。食事を終えた友人が満足そうに椅子に凭れてテレビを見ていた。僕は空腹のまま、部屋に戻った。僕は床に跪いて倒れた。絵がパンに見えた。僕はパンを齧った。僕は呻いてからパンを吐き出した。パンは絵だった。僕が腕を伸ばし、絵の残骸を触れると埃や石粒が位置を変え、移動した。僕が指を動かすと粘着力を感じた。乾燥した絵具が溶けていた。僕は粘着する人差指と親指を擦り合わせた。僕は絵の残骸をどうしようかと迷った。壁に掛けたり(天井に近い位置へ)、励ましの文句(前進あるのみ)が極太で書かれた紙を貼り付けて傾けて置いたり、庭に持って行って焼いたり、忘れるために物々が充満した場所の下の方に挿入したり、誰かに贈与したり、諦めて部屋の隅に放ったり、いろいろな利用法が思い当たったが、どれも僕は納得できなかった。ずっとその絵の残骸を所持したまま、暮らさなければならないんじゃないかと思うと僕は憂鬱になった。しかし友人に銅像で殴られることを僕は心配していなかった。以前のスランプ状態であれば僕はそうしたことを第一に心酔していたはずだった。僕は床にうつ伏せていた。僕は眠気を感じた。両瞼が二つ並んでいて同時に閉じられた。夜は更けていた。

昼にまるまで僕は熟睡していた。微かに期待して僕は顔を上げた。期待は外れた。絵の残骸は床に置かれたままだった。僕は起き上がり、椅子に座った。足元に絵の残骸があった。僕は窮屈な服を着込んでいた。僕が身体を動かす毎に服で身体が締められた。首や手首や足首など幾つかの部分だけは締められることなく、楽に感じられた。僕は絵の残骸を拾うと机に乗せた。僕はその裏側に錐で穴を開けた。僕は絵の残骸を持って顔の前に立てて穴を覗いた。ドアがノックされ、彼女が部屋に入った。穴から僕は彼女を見ていた。何、してんの? と彼女はいい、サンドイッチ数個を机に置いた。僕は持っていた絵の残骸を机に下ろし、答えることに困った。彼女はコーヒーを置く場所を探しているようだった(様々な物が机に置かれていた)が、困り果てて絵の残骸の裏側に乗せた。それ、と彼女はいい、盆として使うために、丁度、いいんじゃない? といった。僕はサンドイッチを食べたり、コーヒーを飲んだりしながら頷いていた。絵の残骸の裏側は濃い茶色い固い板になっていて黒い木目か筋のような変形した線が交錯していた。

早朝、僕は絵の残骸を携えて森の小道を歩いていた。普段、使用していた道と方向が異なっていた小道を僕は進んだ。知人が木に寄り掛かっていた。知人は煙草を咥えて(煙草の先から煙が立ち昇っていた)小型ゲーム機で遊んでいた。ピンボールゲームだった。フリッパーが二つあり、離れて向かい合っていた。それぞれのフリッパーは小型ゲーム機に二つあるボタンと対応していた。知人は小型ゲーム機のボタンを親指で押してフリッパーを動かし、ボールを弾ませていた。ポールの間をボールが動き回り、ベルに当たったボールが画面から消えた。悲鳴を出した知人は下半身を踏ん張ったまま、上半身を仰け反らせた。どこからでも始められるんだぜ、と知人はいい、小型ゲーム機を振った。僕は感心して知人から煙草一本を貰った。どうするつもりだ? と知人は煙草を口から離していった。知人は絵の残骸を一瞬だけ見た。僕は知人からライターを借り、使ってから返した。僕は煙を吸った。僕は煙を吐くといった。どうするつもりもないんだけど、と。僕はまた煙を吸い、吐き出してからいった。どうにかしなければならないんだろうか? と。どうにもしたくなければどうにもしなくたって構わないよ、と知人はいい、煙草を叩いて灰を落とした。どうにかしなければならないらしいんだ、と僕はいった。昨日の夜に僕も考えていたんだが、と知人はいい、もう七転八倒して方法を考えていたんだが、といい、例えば鋏で切るとか叫び続けるとか意味不明な詩を書くとかだったんだが、やはりどれも駄目だと思ったよ、といい、そんなことじゃどうにもならない、といった。僕は森を見た。深緑の木々が斜面に乱立していた。縦横に繋がった木々の葉が風に揺られていた。斜面の向こう側に海があるはずだった。僕は海を想像した。見慣れた海を想像していた。濃く青い海が緩やかな波になって遠くから浜辺にまで達していた。浜辺は薄い波に浸されて波が引くと海水が一斉に染み込んでいた。僕は煙草のフィルターを唇で挟んでいた。煙が右目に接触した僕は煙草のフィルターを噛んだまま、強く両瞼を閉じた。僕は両瞼を右手で擦って煙の粒子を取り除こうとした。涙が流れ、右手が濡れ、煙の粒子はどこかへ消え失せた。知人は小型ゲーム機に内蔵された時計を確認した。もうすぐ朝のニュースが放送される時間だな、と知人はいった。そうか、と僕はいい、帰ろうと思った。僕はログハウスの方に向かって歩き出した。知人も歩き出した。知人は歩きながら小型ゲーム機に熱中しているようだった。可愛いんだよな、と知人はいい、朝のニュースに出ているキャスターといい、赤いスーツを着ていてさ、といった。そうでもないよ、と僕はいい、重くて仕方がない絵の残骸を左手に持ち換えた。大丈夫か? と知人はいい、僕から絵の残骸を受け取った。僕は小型ゲーム機を持っていた。軽かった。知人は絵の残骸を両手で前方に持ち上げて見ながら歩いていた。僕は溜息が出た。それにしてもさ、と知人はいい、これって絵なのか? といった。僕は道端に倒れ込んだ。


終わり