芸術的な陶酔の四頁目


夏も終わりそうな季節だった。暖気が部屋に篭っていて外の方が寒くなっていた。僕と友人は向かい合って座っていた。僕と友人の間にテーブルがあった。テーブルにはカップが二つ置かれていた。カップにはコーヒーが入っていた。コーヒーは熱かった。熱いコーヒーが冷めた頃、僕はコーヒーを飲んだ。君は賭事を嫌いなんだね、と友人はいった。好きだよ、と僕はいった。だって君は賭けないっていっていた、と友人はいった。賭けないといっても賭事を嫌っていることにはならないよ、と僕はいった。友人は両手でカップを包むようにして持ち、背中を丸め、コーヒーを少しずつ飲んでいた。だって君は好きだといったじゃないか? と友人はいった。好きだといっても好きとは限らないよ、と僕はいった。それじゃ話にならない、と友人はいい、コーヒーをまた少しずつ飲んでいた。彼は気分が変わり易いのよ、万華鏡みたいだもの、一瞬ごとに変わるの、と彼女がいった。そうでもないさ、いつも同じだよ、と僕はいった。彼女は不貞腐れてテーブルに突っ伏した。僕は彼女の背中に手を置いていった。とにかく僕は好きだからといって賭事を行うようなことはしたくないんだよ、しかし賭事を行わないからといって賭事を嫌っているわけでもないけどね、と。じゃあ賭事を見ているの? と彼女はいった。見てもいないよ、と僕はいった。どうして見ないんだ? と友人はいった。見ているよ、と僕はいった。見ているんならば賭事に参加すればいいじゃないか? と友人はいった。分かったよ、参加するよ、と僕はいって立ち上がり、コーヒーカップを素っ飛ばした。床に落下してコーヒーカップが割れ、破片が飛び散った。零れ出したコーヒーが床に広がって黒くなった。黒い泡が幾つか現れていた。

僕は友人と一緒に競馬場へ行った。僕は馬券を買って観客席へ紛れ込んだ。大勢が観客席に集まっていた。馬が、数頭、トラックの幅に並んでいた。ゲートが開き、レースが始まった。僕は馬券を折り曲げないように持っていた。周囲の人たちは馬券を握り締めていた。友人もそうだった。僕は馬券を丁寧に扱っていることが不自然に思われた。ゴールへ向かって走る馬の列は乱れていた。レースの着順が電光掲示板に発表された。友人は馬券を破り去った。僕は馬券を見た。僕は馬券を破り去らなかった。馬券は当たっていた。友人は、見せて、といった。僕は友人に馬券を近付けた。友人は馬券を取ると換金所へ走り込んだ。僕は友人を後方から追いかけて行った。友人は金を受け取ると一部だけ(僕が馬券を買ったときの金額)を僕に渡した。おい、僕が当たったんだぞ、と僕はいった。嘘だろ、僕が当たったんだよ、と友人はいった。そうだな、と僕はいい、でもやっぱり僕が当たったんだよ、といった。そうさ、君が当たって僕が金を貰った、と友人はいった。僕と友人は次のレースにも賭けた。僕が買った馬券は外れた。友人が買った馬券は当たった。当たれば当たるものだな、と友人はいい、札束を上着のポケットに入れた。上着のポケットが膨らんでいるようだった。そのとき、僕は所持金を使い果たしていた。僕は空腹を感じた。友人は出店でたこ焼を買った。友人はベンチに座り、たこ焼を食べていた。僕は口の中に唾液を溜めながら口を動かしている友人を見ていた。僕は公園の水道を使って水を飲み、空腹を紛らわした。濡れた唇を上着の袖で拭くとベンチに戻り、友人の隣に座った。食う? と友人はいってたこ焼を、一個、僕の前に差し出した。いらん、と僕はいった。欲しいんだろ、と友人はいった。欲しいさ、と僕はいった。じゃあ、一個、あげるよ、友人はいった。いらないよ、と僕はいった。我慢強いんだな、と友人はった。一個、貰うよ、と僕はいった。残念ながらもう、全部、食べちゃったんだ、と友人はいい、プラスチックケースを僕に渡した。捨てといてね、と友人はいい、公園を出た。プラスチックケースにはたこ焼の滓や青海苔やソースがこびり付いていた。僕はそれらを舌で掬い取って味わいたくなった。しかし僕はゴミ箱へ投げ入れることにした。僕がプラスチックケースをゴミ箱へ投げると風に吹かれて軌道が逸れ、茂みのそばに落ちた。犬がプラスチックケースを舐めていた。

どうだった? と彼女はいった。どうもこうもないさ、といって僕は昼間の出来事を話した。酷い話ね、と彼女はいった。友人が帰って来た。僕が当てた金はどうした? と僕は友人にいった。全部、使っちゃったよ、と友人はいい、欠伸をしながらテレビを映して見ていた。返しなよ、と彼女はいった。どうして? 僕はあいつから貰ったんだよ、と友人はいい、テレビを見ていた。彼女は僕を見ていった。あげたの? と。僕は頷いた。酷いわ、私だって欲しいものがたくさんあったのにあんな奴にあげるなら私に頂戴よ、と彼女はいった。次は君のために取っておくよ、と僕はいった。約束よ、と彼女はいった。僕は頷いた。

さっぱり僕は当たらなくなっていた。いつしか僕は競馬に没入していた。ログハウスに戻る途中、僕は歩行が進み難くなり、両脚が重く感じた。重い扉を何とか押し開けて(開けるか開けないかと何度も悩み躊躇った後にそうした)僕はログハウスに戻った。また外れたの? と彼女はいった。僕は弱々しく頭を垂れ下げた。もういいわ、あなたになんかもう期待しないわ、と彼女はいって台所へ行き、料理を作っていた。焦げた臭いが充満していた。換気扇を回せよ、と友人が大声でいった。うるさいわね、何なのよ、あんたは? いつからここの住人になったっていうの? と彼女はいった。いつの間にか、と友人はいった。煙と焦げた臭いが徐々に消えていた。彼女が料理を運んで来た。皿がテーブルと衝突して固い音が響いた。皿に置かれていた焼魚がずれた。焼きすぎだよ、と友人はいい、黒焦げだぞ、といい、食っていた。僕は焼魚を箸で細かく切り分け、申し訳なさそうに食べていた。賭事なんかもう止めたら? 全部、絵を描かなくなっちゃったじゃない? と彼女はいった。僕は焼魚の肉を噛みながら二回とも頷いた。

夜中に僕は部屋を抜け出した。競馬場へ向かった。僕は呼び止められた。僕が振り向くと知人が立っていた。構わないのかい? と知人はいった。何が? と僕はいった。だって賭事を止めるっていっていたんじゃないの? と知人はいった。僕と知人は一緒に歩いた。街路灯が道路を照らしていた。周囲は暗闇だった。ガードレールが白かった。白いペンキが乾燥して罅割れていた。止めるっていったってこのままじゃ止めるに止められないよ、と僕はいった。知人は身体を捻り、ズボンのポケットを探った。知人は皺になった札を、数枚、取り出した。僕は唇を噛んで見詰めていた。これをあげるよ、と知人はいい、彼女に渡して君が競馬で当たったことにしろよ、といい、札を持った手を僕の方へ寄せた。僕は躊躇った。ほら、と知人はいい、札を僕の胸に押し付けた。僕は両手をズボンのポケットに押し込んでいた。どうして? と知人はいった。しかし何だか勝手が違うような気がする、と僕は呟いた。何をいっているんだ、君は? 競馬で当てるっていうのはこういうことをいうんだよ、と知人はいった。僕は驚いて、えっ、と呻いた。まさか君は電光掲示板に発表された数字と馬券の数字が一致することだとでも思っていたのか? と知人はいった。僕は頷いた。知人は溜息を一つ吐き出して、呆れるよ、全く、といい、札の皺を丁寧に伸ばしていた。知人は自動販売機の挿入口へ札を合わせた。自動販売機の羅列するボタンの赤いランプが点った。知人はボタンを一つ押した。暫くして小箱が落ちた。知人は屈んで自動販売機から小箱を取った。知人はセロファンを摘まんだ手を小箱の周囲に巡らした。知人は銀紙を破り開き、煙草を小箱から取り出して僕に渡し、もう一本を小箱から取り出して口で咥えた。知人はズボンのポケットに手(小箱を持っていない手)を入れてライターを取り出した。ライターのスイッチを知人は押した。火が出た。僕は煙草を口に咥えた。知人はライターの火を僕が咥えていた煙草の先端に合わせた。僕は煙を吸った。僕は煙を吐いた。知人は咥えていた煙草に着火して煙を吸った。知人は煙を吐いた。なあ、と知人はいい、確かに君が僕から礼を受け取ることは換金所に行って礼を受け取ることと違うし、僕から礼を受け取って競馬で当てたというのは嘘になるのかも知れないが、これからはそうじゃないんだ、馬券を当てるっていうのは僕から礼を受け取ったということになるんだ、しかし勘違いするなよ、次に君が困難に出会って道端を歩いていたとしても僕がまた君に礼を渡すなんてことはもうないんだからな、またあるとしても別の話だろう、と知人はいった。しかし、と僕はいった。煙草の灰が落下した。知人が咥えている煙草の先端は灰が斑になっていて火が橙色に輝いていた。しかし君から礼を受け取ることが馬券を当てることになるっていうのは意味が成立しないんじゃないか? と僕はいった。そりゃそうさ、と知人はいい、こんなことを理解できる奴なんていやしないよ、といった。じゃあやっぱり僕は受け取れないよ、と僕はいった。どうしようっていうんだ、君は? と知人はいい、電光掲示板の数字と馬券の数字を一致させようとしたって不可能だよ、といった。それに可能だとしても時間を無駄にすることになるんだ、と知人はいった。僕と知人はガードレールに座っていた。そうか、分かったよ、と知人はいい、何回も頷いた。受け取れないんだな、と知人はいった。受け取れないんだよ、と僕はいった。仕方がない、と知人はいって暗闇に紛れて行った。僕はログハウスの方へ歩いて行った。道路はアスファルトだった。固かった。靴底のラバーが緩やかに弾んでいた。


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