芸術的な陶酔の五頁目


僕は部屋の窓を開けた。窓枠に右足を掛け、左足を地面に踏ん張ってから離した両手で窓枠を掴み、僕は窓枠に飛び乗った。僕は靴を脱いで室内に静かに飛び降りた。僕は窓を閉め、カーテンを引っ張って閉めた。僕は玄関まで行って靴を置いた。僕は部屋に入った。彼女は眠っていた。僕は布団を捲り、彼女の隣に忍び込んだ。僕は彼女と一緒に眠った。電話が鳴った。僕は両瞼を開けた。彼女が虚ろな声で、何? といった。僕はベッドから滑り下りて布団を押し直した。僕は遠く歩いて電話まで行った。僕は受話器を取った。警察が相手だった。

僕は門の間を通って玄関を逸れ、自転車を止めた。自転車を置くと僕は建物の傍らを歩いた。石段が続いていて石段と建物の間に植木が並んでいた。僕はコンクリートの階段を上り、玄関へ向かった。僕はガラス扉を押し開けて建物の内部に入った。部屋の面積の半分に机がたくさん並んでいた。並ぶ机の上の空間は遮られていなかった。部屋の周囲の一部分にロッカーが建ち並んでいた。また部屋の壁があった。大きな窓が壁に嵌め込まれていた。外の暗闇を僕は見た。テーブルに手を置いた人が前傾姿勢で僕に顔を向けた。その人はスーツを着込んでいた。警官だった。僕は背を丸めてぎこちなく歩いて行った。僕は両膝を曲げたまま、歩き、警官に近付いた。僕は電話で呼び出されたことを警官に説明した。知人がテーブルのそばに座っていた。警官は僕に僕と知人の間柄を訊ねた。学校の同級生です、と僕は警官に答えた。警官は不審な表情を示し、兄弟じゃなかったのか? といった。僕は知人を見た。知人は頭をテーブルの方に垂れていた。知人の首は婉曲し、皺はなくなっていて刈り揃えられた髪の毛が整っていた。もし髪の毛を触ればちくちくしそうに僕は感じた。彼の両親は旅行に行っていていないので、僕が代わりに来ました、と僕は答えた。兄に電話すると聞いていたんだが、兄はいないのか? と警官はいった。彼の兄も両親と一緒に旅行中なのです、と僕はいった。警官は眉間に皺を寄せた。電話で話した人は君か? と警官はいった。はい、そうです、と僕は答えた。彼の兄を呼び出すように頼んだんだが、君は、はい、私が兄です、と答えていたな、と警官はいった。はい、と僕はいった。僕は何事も感じていない、また警官の迫力に圧倒されていないという素振り(普段と同じような素振り)を示して胸を僅かに張り出しさえした。僕は鼻水を静かに吸い上げた。僕は静かにしようと思ったが、すると逆にどんな小さな音さえも尋常と思えないほど大きく感じられた。警官はメモ帳を捲っていた。僕は鼻から溜息を抜いた。なぜ君は彼の兄でもないのに、兄です、と答えたんだ? と警官はいった。僕は何というかを分からなくなった。答えていませんとか気が動転していましてとか別の人がそう答えたんですとかを僕は思った。ん、と警官はいい、どうしてだ? といった。なぜそんなことを知りたいんですか? と僕は警官にいった。私が質問しているんだぞ、と警官はいい、反抗的だな、といった。僕は後頭部に手を当てて掻いた。髪の毛が擦れ合った。そんなつもりじゃありません、と僕は警官から顔を外らしていい、嘘をいってしまいました、と僕は警官に顔を向けていった。だからなぜそんな嘘をいったかと訊ねているんだ、と警官はいった。しつこい警官だなと僕は思い、警官なのかどうかが怪しく感じられた。しかしどこからどう見ても警官のようだった。なぜといわれましても、と僕はいい、身体を捩った。時々、彼女が見せるような可愛らしい仕草を僕は思い出した。はっきりしないな、ちゃんと答えろ、と警官はいった。知人がテーブルに手を乗せていた。手は拳だった。拳が震えていた。僕は顔をあちこちへ動かしながら立っていた。理由はありません、と僕は答えた。理由もなく嘘をいう奴がいるか? と警官はいった。いると思ったが、警官をからかっていると思われそうだったので、僕は警官に頷いていた。なぜだ? なぜ嘘をいった? と警官はいった。変な声が聞こえた。彼は僕の兄なんです。と知人はいった。何? 彼は君の同級生だと答えたんだぞ、全然、話が合わないじゃないか? と警官はいった。だから僕と彼は互いにそう呼び合っていたので、電話したときに彼は兄だといってしまったんですよ、と知人はいい、誰かに訊ねられたとき、癖になっていたものですからそう答えてしまったんでしょう、といった。ということは君はそんな兄を呼び出そうとしたのか? と警官は声を荒げていった。違います、と知人はいい、兄と彼は同じ家に住んでいたことは確かなんです、といった。知人の隣に座っていたもう一人の警官(立っている警官よりもスーツの色が濃い)が調書を記載していた。まさか君らはそんな空想的な兄弟関係を利用して不動産屋から家を借りたんじゃあるまいな? と警官はいい、それだけじゃないぞ、銀行から金を借りるにしても何にしてもだ、といった。そんなことは決してありません、と知人はいい、家を借りた人は兄てすし、彼は兄の厚意でその家に住み込んでいたんです、といい、僕たちはただ互いを呼び合うときにほんの些細な遊び心として兄弟といっていただけです、といった。知人の話声はだんだん小さくなった。警官は僕に向き直った。兄だと答えることが君は癖になっていたのか? と警官はいった。知人は閉じた口を動かしていた。彼の表情は緩んでいた。はい、そうです、と僕はいった。警官は鼻を鳴らし、不満そうだった。調書を記載していたもう一人の警官が、理由なんかありませんといったことに関して追求する必要があるんじゃないでしょうか? 警官は低い声を響かせて頷いた。どうして理由なんかありませんといったんだ? と警官はいった。僕は口を閉じたまま、喉を鳴らしていた。調書から顔を上げた警官は、君は癖になっていたことを認めたんだから理由がないなんて変だし、また理由がないとすれば癖になっていたなんてことは認められないはずだ、といった。どうなんだ? といって警官は僕に迫った。僕は後方に、一歩、退いた。僕は上半身を傾けて倒し、下半身は縒れながらも平衡を保っていた。僕は調書を見た。理由なんかないと書かれた部分を消してくれないかと僕は思った。警官がそんな要求を認めるはずがないだろうと僕は思った。僕は知人を見た。知人はテーブルに右肘を付いて横顔に右手を当てていた。知人の左手は垂れ下がっていた。僕は癖になっていたということを撤回するつもりもなかった。もし撤回すれば厳しい尋問がどこまでも続いてしまうように僕は感じた。さらにその場合、僕が癖になっていたことを認めたことも新たに問い詰められそうだった。おい、といって警官は僕の腕を強く掴んで僕を引き寄せた。どうなんだ? と警官はいった。癖になっていたことが理由だからです、と僕はいい、もしそうでなければ依然として理由はないことになります、といった。はぁ? といって警官は息を吐いた。警官は僕の腕を掴んだままだった。だから癖になったことが理由なんですよ、と僕はいい、しかしそうだとしても癖になったことが理由かどうかは別の話です、といった。警官は僕の腕を掴んでいた手を離した。締められていた袖が徐々に緩んだ。警官はスーツの衿を引っ張ってから、すると君は理由を認めてないことになるな、理由なんかありませんといったんだから、といった。はい、そうです、と僕は掴まれていた腕を押さえ、残っていた感触を消し去ろうとした。突然、警官は僕の服を握り締めた。そんな話を信じられるか? と大声でいい、真面目に答えろよ、といい、僕を押し飛ばした。僕は椅子を弾き飛ばして床に腰を打ち付けた。いい加減な答えばっかりしやがって、と警官はいい、癖になっていたわけじゃないんだな、といった。いや、と僕は震える声でいい、癖になっていたのは間違いありません、といった。君は理由なんかありませんといい、それを認めていないんだから癖になっていたわけじゃないんだろ、と警官はいった。僕は左右に首を振った。僕は調書を奪い取って逃げ出したいと思った。どうすればいいんですか? と僕は警官に聞こえないように小さく呟いた。留置場へ放り込むか? と警官がもう一人の警官へいった。調書を書いていた警官は納得し難いようだった。両手で頭を抱えていた知人が警官を見上げ、彼が理由なんかありませんといったことに大した意味はありませんよ、奇声を発したというその程度のことだったんです、といった。警官は両腕を組んだまま、否定的な素振りを示した。まあいい、と警官はいい、このままじゃもうどうしようもない、彼がそれを認めているかどうかは別として調書に記載しておこう、といい、癖になっていたんだな? といった。頷いた僕は脱力したまま、床に座り込んでいた。もう一人の警官が鉛筆を持った手を動かしていた。僕は認めていますよ、と僕は床に跪いていった。理由なんかなかったはずじゃないか? と警官はいい、何回も頷いていた。僕は漠然と床を眺めていた。警官が調書から顔を上げた。彼は理由を認めていないことに同意したはずだったんですが? といって警官は微笑んでいた。警官は二人で見詰め合ってから僕を見下ろした。立っていた警官は笑い声を出しながら、狂っているんだよ、といった。


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