芸術的な陶酔の七頁目


浜辺がクリーム色になっていた。白い砂粒が疎らにあった。海から出て来た彼女が僕にくっ付いた。水滴が僕の身体にくっ付いてそれらの幾つかが流れた。僕は彼女とキスした。知人を思い出した。彼は雑踏を突き抜けて来るような速さを備えていた。彼は速かった。しかし決してどこにも到達しないような、いやしかし到達したとしても遅すぎるようでもあり、彼が到着することはいつでも遅すぎるのだが、その到着しようとして急いでいる彼の様子はやはり速いとしかいいようがないほどだった。彼の遅さは非難される類のものではなかった。彼の到着を待っている限り、非難されるかも知れない彼の遅さだったが、そうでなければ猛烈な速度で会いに来る彼は長い距離を走らなければならず、遅くとも仕方がないなと僕は思った。どうして彼を嫌うんだ? と僕は彼女にいった。だって何だか油臭いのよ、あの人、と彼女はいい、僕の胸に頬を当てた。そりゃアルバイトで彼は整備士をやっているからだよ、と僕はいった。風呂に入っているのかしら? と彼女はいった。入っているよ、と僕はいった。染み付いちゃってもう臭いが取れなくなっているのね、と彼女はいった。僕はもう彼と会うことを止めたいと思った。彼は僕が呼べばいつでもどこにでも来てくれる相手だった。彼と会うことを企ててそれで会ったとしても僕と彼は何もすることはなく、どうすることもなかった。僕は彼が自動車を整備している姿を想像していた。

君と一緒にいる間もどうしても知人の姿が消え去らないんだ、と僕は彼女にいった。滝にでも打たれれば忘れられるかしら、と彼女はいった。彼女が知人を嫌わなくなれば僕は彼を忘れられると思った。しかし僕は彼を忘れる必要もないと思われた。僕は買物に行って来るといおうと思ったが、知人に会いに行く、と彼女にいった。駄目よ、と彼女はいい、僕の腕を掴んだ。僕は彼女を振り払おうと思ったが、止めた。どうして? と僕はいった。会いに行くなんて駄目よ、と彼女はいった。遠くの浜辺に小さく友人らしき人物が見えた。そこから、一瞬、光が舞った。銅像が輝いたらしかった。僕は脱力して浜辺に寝転んだ。彼女は僕に寄り添って寝た。彼女は僕の胸に手を置いた。僕の胸は鼓動していた。会いに行くなんて駄目よ、と彼女はいった。

僕は眩暈がしていた。僕は部屋のベッドに運ばれていた。ドアがノックされた。ドアが開いて彼女が飲物を盆に乗せて運んで来た。飲物は温かいレモンジュースだった。僕は彼女の柔らかい身体をきつく抱き締めた。僕は悲しくなっていた。彼女が僕と知人が会うことを阻む障壁のように思われていたことを僕は悔しかった。これ、と彼女はいい、手紙を僕に見せた。知人から送られた手紙だった。具合はどうだい? 元気になってね、と書かれていた。もう一つ小さな手紙が封筒に入っていた。彼女へ宛てられた手紙だった。それを僕は彼女に渡した。彼女は小さな手紙を読んでいた。僕は気になってそれを読んだ。彼を看病してくれてありがとう、と書かれていた。僕は知人の紹介で彼女と出会ったことを思い出した。

彼女が知人を嫌っていることに変わりなかった。しかし僕はそのことを気にもせず、知人と会うことも続けていた。彼女は僕が知人と会っていたことを知るとやはり僕を罵倒し、また知人をも罵倒していたが、だからといって僕と彼女が愛し合っていることに変わりはなかった。僕と彼女は絡み合ってベッドから転がり落ちた。絡み合いは解けず、僕と彼女はそのままで床の上を左右斜めあらゆる方向に回転していた。そうしている間に僕は彼女と一緒にベッドの下に入っていたことに気付いた。ベッドの下は埃だらけだった。衣服や髪の毛に埃の塊を何個もくっ付けながら僕と彼女は一人ずつベッドの下から這い出した。僕と彼女は風呂場へ行き、シャワーで互いの埃を隅々まで流し落とした。僕と彼女はシャンプーで頭を洗い、石鹸で身体を洗い、全身の泡をシャワーで流し落とした。

僕が知人と会えば会うほどますます彼女は嫌がった表情を見せ、もう彼と会わないで、と叫んだ。すると僕と彼女はより一層と強く抱き合うという始末だった。彼女の叫び声はログハウスの外にまで届いていた。驚いた友人が慌ててドアを開け、僕と彼女を引き離した。友人は銅像で僕の頭を叩いた。僕は頭から流血した。彼女は僕の頭を両手で支え、傷を消毒し、包帯を巻いた。どうしてそんな奴を庇うんだ? と友人はいった。だって可哀想だわ、と彼女はいい、僕の頭を抱き締めた。止めろ、止めろ、と友人はいい、彼女の肩を引っ張って僕の腹を蹴り飛ばした。友人は銅像で僕を叩こうとして僕を追いかけた。僕は逃げた。

僕は一目散に知人の家に飛び込んだ。知人は紅茶を用意していた。僕は紅茶を飲んだ。紅茶は薄い茶色で湯気が漂い、微かにレモンの香が混ざっていた。あいつと一緒にいると身体中が痛くなって仕方がないよ、と僕はいい、紅茶を飲んだ。僕は知人を見た。知人は僕を見ていた。君が無事で安心したよ、と知人はいった。知人はカップをテーブルに置くと溜息を吐いた。

僕はログハウスに戻った。友人と仲直りしなければならないと僕は思った。僕は箱を持ってテーブルに置いた。何、何? と彼女がいい、箱を開けた。ショートケーキが、三個、入っていた。これで何とか? と僕は友人にいい、頭を下げた。何をだ? と友人はいい、ショートケーキを一瞥した。早速、彼女はショートケーキを食べていた。僕も食べた。友人は鼻を鳴らし、いらんわ、といった。あらそう、と彼女はいい、友人のために残してあったもう一個を食べてしまった。友人は立ち上がり、部屋を出て行った。

僕は知人と待ち合わせた。僕たちがレストランのそばを通ると友人が一人で食事を行っていた。僕と知人はレストランに入った。友人はスパゲッティを食べながら両目で僕を見上げた。僕と知人は友人と向かい合った席に並んで座った。調味料が入った小瓶が置かれた場所に混ざって、一際、大きな瓶があるなと僕は思った。銅像だった。僕は銅像を持ってスパゲッティの上で振り動かし、友人をからかった。友人は噛んでいたスパゲッティを飲み込むと、止めろ、といった。僕は気分を損ね、銅像をテーブルに置いた。止めた方が良いよ、と知人はいい、銅像を誤解する恐れがあるからな、といい、タバスコの瓶をスパゲッティの上で振った。タバスコ数滴がスパゲッティに落ちた。友人はフォークでスパゲッティを掻き回した。ありがとう、と友人はいい、スパゲッティを食べた。辛すぎないだろうかと僕は思いながら友人を見ていたが、友人は噛んでいたスパゲッティを吐き出すこともなく、飲み込んだ。食後のコーヒーが運ばれて来た。どうしてショートケーキを食べなかったんだ? と僕はいった。食えないよ、あんなもの、と友人はいった。友人は熱心に読んでいた漫画本から顔を上げ、食わなくたって構わないじゃないか? といい、食ったからといって君たちが仲直りできるとも限らないよ、といってまた漫画本に顔を向けた。友人がショートケーキを食べなかったからといって僕と友人が啀み合っていると限らないと僕は思った。僕たちは険悪なのか? と僕はいい、それとも良好なのか? といった。友人はコーヒーを飲んでいた。知人は溜息を吐き、呆れたようだった。もう最悪だよ、と知人は声を震わせていい、頭を垂れた。知人はレストランから出た。友人が知人に続いた。友人は腹を押さえて満腹な様子だった。僕は一人だけ残された気分になり、彼らを追ってレストランから出た。

僕はやっと部屋に辿り着くと疲れてベッドに倒れ込んだ。隣の部屋に彼女と友人がいた。テレビの音量が扉と壁の隙間から小さく聞こえ、談笑する声が聞こえた。僕は億劫なので、照明を使うこともしなかった。夜だった。

朝だった。天気は快晴だった。僕は爽快な気分で部屋を出た。友人が絵を描いていた。僕は柄にもなく友人が描いていた絵を見て褒めた。うるせえな、と友人はいい、描くことに意識を集中していた。テーブルに銅像が置かれていた。僕は銅像を倒した。友人は激怒して銅像で僕を殴った。友人は銅像を置き直すとまた絵を描き始めた。僕は庭に出た。彼女が花に水を与えていた。僕は彼女のそばに屈んだ。きれいでしょ? と彼女はいった。僕は頷いた。色々な花が並んでいた。僕は全部に対して頷いた。私、これ、嫌いなの、と彼女はいい、茶色の花を指した。それは最悪だね、と僕はいった。可哀想だわ、と彼女はいった。彼女は茶色の花に水をたくさん与えた。色が変わることはなかった。仕方がないよ、そういう花なんだから、と僕はいった。見ていると辛くなるの、と彼女はいった。僕は茶色の花を根刮ぎ引き抜こうと思ったが、止めた。僕は立ち上がり、小石を蹴り上げた。小石は大して上がりもせずにすぐに落下し、転がって止まった。僕は両手を別々にズボンのポケットに包み込ませて散歩へ行った。


芸術的な陶酔の八頁目