芸術的な陶酔の九頁目


夜になり、食事を済ませた僕は部屋に入り、ベッドに寝て布団を被っていた。窓も扉も閉じられていた。僕はどうにも眠れず、思いを巡らせていた。空想に耽っていた。メリーゴーランドが回転していた。白馬や馬車や王子や王女が上下しながら円周に沿って動いていた。以前、僕が幻覚を見たとき、幻覚に自分がいると思って驚いたが、今回の場合、幻想的な映像の中に僕は自分を意識的に登場させていたので、驚きはなかった。恍惚感や陶酔感を感じようとすればできないこともなさそうだったが、僕はごく僅かだけそれらを感じることにし(感じるための意識的な操作が必要だった)、大半、微睡んでいた。確かに僅かだとしても僕が微睡んでいた間に何が起こっていたかを僕は知らなかった。それを思うと僕は僕が寝ているベッドに穴が開いて落ちそうな気がした。僕はベッドを肘で付いて感触を確かめた。やや驚いたが、少し安心した。僕は何が何だか自分でもさっぱり分からなくなってしまった。あらぬ方向へ僕の思いが逸れているような気がした。幻想的な映像の中を走っている自分がいて、またそうした映像を巡らしている自分がいた。さらに僕の背後にも自分が、もう一人、いるようでもあり、そうなるともうどんどん自分が増殖するようだった。暖色の絵をたくさん描いたときと同じだと僕は思った。

朝方、僕は虚ろな感じで窓の外を見た。靄が漂っていた。日中にも拘わらず、電球が灯されていて外の明るさと電球の明るさを区別できず、恰も電球が灯っていないかのような(その場合でもしつこく見れば電球は灯っているのだが)感じを受けるときのその灯っていないような電球と同じような明るさが外から部屋の中にまで明度が減少しながら通じていた。その明かりは実際に灯っていない電球と同じほどの明るさとも思われるが、しかし灯っていない電球が明るいことは変だと思われ、結局、電球のガラス素材がどこかの光を反射するか受けるかして明るいときと同じようだった。

僕は森の中にある道を歩いた。一歩ずつ歩いた。木々が次々と道の両側に並んでいた。僕は走った。木々は繋がって形が失われていた。道は一本だった。僕は歩く速度を減じた。木々が次々と道の両側に並んでいた。僕は進行方向を逸らし、木々の間に侵入した。枯れた落葉が地面に密集していた。僕は森の中にいた。霧が濃かった。僕は幹を触った。樹皮は凹凸があり、僕が樹皮を触れた指先に凹凸が伝わった。つまらなくなって僕は部屋に戻った。森から出てどこへ行っても変わらないと僕は予感していた。僕が期待していたことは森が別世界と繋がる(急に部屋がアトリエになったと感じられた瞬間と同じような印象を受けたい)ことだった。残念ながら期待は外れた。

僕は精力的に絵を描くようになった。朝も昼も区別がなくなるほどに作業を続けた。彼女は僕の姿を見て驚いていた。僕がスランプ状態だった頃、画布のそばにぶっ倒れて這い蹲っていたことを彼女は指摘した。僕は暖色の絵を見たときに感じられた印象を彼女に教えなかった。どうしてどうして? と彼女はしつこくいった。僕は、分からない、といった。彼女は拗ねた。彼女は僕が描いた絵を取り上げて眺めた。さらに彼女はその一枚と壁際に散在した数多くの絵を見比べているようだった。どれも同じような絵ばっかりね、と彼女はいい、退屈に感じているようだった。同じような絵ばかりたくさん描いたって仕方がないんじゃない? と彼女はいった。僕も同感だった。しかし細かく執拗に見ればどの絵も違っていると僕は思っていた。以前にあなたが描いていた泥沼の方を私は好きだったんだけど、と彼女はいい、部屋から出た。ドアが閉じられた。僕は彼女のために泥沼を描こうとした。しかし別な技術が体得されてしまったからか以前に描いていたような泥沼を僕は描けなくなっていた。描いたとしても僕は納得できなかった。どうしても何か画面が全体的に輝いているように思えてしまい、あの光沢が絵具に沈んだような泥沼と異なっていた。

知人が部屋に訪れた。それにしても同じような絵ばかりを描いていてよくも退屈しないものだな、と知人はいい、呆れていた。知人はどこから持って来たか分からないような絵を僕に見せた。大木が描かれた絵だった。それは僕が暖色の絵をたくさん描いていたときに知人が持って来た絵と同じようだった。君も同じ絵ばかり描いているじゃないかと僕は思ったが、その絵は僕が描こうとしても描けなくなっていた泥沼と同様な技術で描かれているようだった。全体的に光沢がなく、暗色の絵具が大量に使用されていた。渦巻いた絵具が画布の至る所にあり、大小も様々だった。暗色の絵具は画布の表側と裏側を繋ぐ側面にも垂れ固まっていて僕が絵を捲ると画布の裏側にまで達していた。僕が絵を顔に近付けて見ると画布に穴が開いていた。穴は小さく、空洞の内周も真っ暗だった。虫に喰われたのか? と僕は知人に訊ねると彼はいった。穴なんか開いていないぞ、と。えっ、と僕はいい、絵を顔にもっと近付け、鼻の先が乾いた絵具に接触し、臭いが感じられ、絵具が乾いた体温で溶けそうだった。僕は顔を画布から少し離した。知人はベッドに座り、自棄糞な調子で着ていたシャツやズボンを探り、煙草を取り出し、煙草を咥え、ライターで煙草に着火し、煙を吸った。ライターの火は消え、知人は煙を吐き出した。僕は画布の裏側を見た。裏側は板になっていて黒っぽい絵具が点々としていた。画布の表側と裏側が貫通していて溢れ出た絵具が固まった黒い点々だと僕は思ったが、画布の側面に固まった絵具と続いて裏側にまで飛び散った絵具が点々になったものだとも思われた。乱暴に描かれているから穴が開いていても変じゃないなと思ったよ、と僕はいった。丁寧に描いたつもりだったんだが、と知人はいい、火が着いた煙草を右手の人差指と中指で挟み、口から離し、左手をベッドに置いていた。知人は右足を床に着地させ、曲がった右脚に曲がった左脚を掛けたまま、左足を揺らしていた。いつ描いたんだ? と僕は絵を見ながらいい、絵を持つ両手に力を加え続けた。昨日の夜だったかな、と知人は天井の方へ顔を上げていった。知人は口を窄め、煙を吹き出した。つい最近だな、と僕はいった。知人は首を回していた。知人は煙草を灰皿に押し付けた。煙草は縮み、煙が煙草から離れ、膨らみながら上昇し、拡散して消えた。貰って構わないか? と僕はいった。どうぞ、と知人はいい、そのために持って来たんだ、といった。僕は知人に対して謝罪したい気分だったので、散在していた僕が描いた暖色の絵一枚を床から拾い上げて知人に渡した。知人は絵を受け取った。しかし知人はまだ大量にある暖色の絵を一瞥した。欲しかったら、全部、あげるよ、と僕はいった。全部、あげたとしても僕はいつでも同じような絵を描くことができると思っていた。持ち帰ることが面倒だし、どれも同じだから一枚で結構だよ、と知人はいい、部屋から出て行った。知人は絵を途中で捨てるんじゃないかと僕は思った。知人にとって暖色の絵はつまらないんじゃなかろうか、またそれでなくとも彼がその絵をどうするんだろうかと僕は心配というわけでもなかったが、興味を感じた。僕は部屋を出た。ログハウスを出た。彼女が何かをいったが、既に僕はかなり遠くまで走り去っていた。

森の中に通じている道は一本しかなく、知人の後姿が見えた。知人は僕に気付き、どうしたんだ? といった。僕は呼吸が乱れていてなかなか話せなくなっていた。相当な勢いで来たんだな、と知人はいって僕を見た。ずっと君がベッドに寝たままだったことを思うと信じ難いほどの速度だ、と知人はいった。君ほどじゃないよ、と僕は屈んだまま、いった。断続的な呼吸で僕の話は間延びした。どうしたんだ? と知人はいい、何か用か? といった。その絵をどう使うかを知りたくて、と僕はいった。知人は暖色の絵は胸の前に出した。美味しそうだから食べようかな、と知人はいった。狂っているのか? と僕はいい、絵具と画布と画板と釘を食べるなんて、といった。知人は大声で笑った。冗談だよ、と知人はいった。ああ、と僕はいい、息を吐いた。空腹だ、と知人はいい、腹を摩った。僕は台所から持って来たパンを知人に渡した。パンはふっくらと小麦色に焼けていた。知人はパンに齧り付いた。パンの白い中身が現れた。知人は食べながらいった。用意がいいんだな、と。まあね、と僕はいい、恥ずかしくなった。もういらない、と知人はいい、絵を僕の胸に寄せた。僕は受け取りたくなかった。僕もいらないよ、と僕はいった。じゃあ額縁に嵌めて部屋に飾ることにするよ、と知人はいった。僕は心配になった。どうして飾るんだ? と僕はいった。僕は知人の家まで行って彼がそれを行うかどうかを確かめたい衝動に強く動かされ、全身が奮えた。止めだ、止めだ、と知人はいった。僕と知人は森から出る寸前まで歩いていった。ゴミ箱があった。知人は絵をゴミ箱に入れた。そのうち回収車が来て処分するだろ、と知人はいった。僕は躊躇った。僕は絵をゴミ箱から取り戻した。僕を殴るつもりか? と知人はいい、一歩、後退して緊張した様子だった。そんなんじゃない、と僕はいった。僕は絵を持った両手を高々と振り上げた。精一杯、振り上げると僕は最高の力を両腕に加え、両脚で体勢を整えて両脚を振り下げた。絵が地面へ強烈に落下した。絵は、数回、弾み、止まった。僕は絵を何回も何回も踏み潰した。僕は涙が溢れそうだった。おい、もう気が済んだだろ、と知人はいい、怒り狂って暴れ続ける僕を捕まえた。捕まえられても僕は絵を踏むことを止めず、届かなくなっても両脚を振り続けた。


芸術的な陶酔の十頁目